聞き手:あゆ 写真:かんちゃん 編集:しおね
志和にあるお寺、光源寺。今回はそこで住職をされている堀靖史さんに話を伺いました。
実はこのお寺、私たち学生団体mahoLabo.が昨年の夏に合宿を行った場所でもあります。志和の地域で何か学生と一緒にできることはないかと考えていた堀さん。東広島を拠点として活動する私たちmahoLabo.。そんなふたつの偶然の出会いでお寺合宿が計画されました。
合宿では、志和地域の方々と一緒にイベントを考えたり境内でごちそうを頂いたりと、地域の方との交流もありました。お寺ということで、堀さんにならってお経を読んだり、御説法を聞いたりする時間もあって、私にとって初めてのお寺や仏教というものに触れる機会でした。
お勤め中の堀さん
御説法の中で堀さんは「お寺は、ふと足を止めて忙しい日常の中では考えることのできないようなことを考えることができる場所だ」と言いました。その言葉がずっと心に残っていて、いつしかお寺のあり方や忙しい日常のこと、変わりゆく社会のことについて堀さんとお話ししたいと思うようになっていました。そんな堀さんに、まずは堀さんが学生と関わる活動をするようになった経緯を聞くところから、取材は始まります。
宗教者として社会と関わる
― 堀さんがこうやって学生の活動を積極的に応援してくださることには何かきっかけがあったりするんですか?
実は、ちょっとしたご縁があって住職になる前に6年間京都にある龍谷大学の大学院で勤務していたんですよ。本当は大学院の博士課程が終了したらお寺に帰ろうと思っていたんだけどね。
― それは講師として働かれていたんですか?
いや、実習助手として教授と学生を繋げる役だった。その大学院では、学生は3年間の在学期間の中、1年間を実習期間としていて。その中で、日本全国の寺院や福祉施設、海外でのボランティア活動などさまざまな実習先がありました。その実習のコーディネートをしていましたね。だから、教壇に立つというよりは学生のサポート役でした。だからこうやって学生と何かすることが以前から好きだったっていうことよね。
ー なるほど。じゃあ、大学院で勤めた6年間が現在の堀さんにも影響を与えているんですね。
今振り返ってみてもその6年間は大きいよ。若いひとたちが持っているアイデアってやっぱり斬新だし、素晴らしいと思う。だから、そういうのをどうにか形にしてあげたいなっていうのは教員時代にいつも思っていたことだね。
やっぱり、そのときの経験が大きくて、視野がすごい広がったっていうのは思っていて。すぐに帰ってお寺だけの活動をしていたら今やってる活動はやってなかったかもしれない。
― 視野が広がった、というと?
勤めていた大学院の研究科が「社会の中で宗教をどう実践していくのか」っていうことをテーマにしてたんだよね。でも、宗教ってまだまだ社会の中で受け入られていないこともあるじゃない?例えば道端で手を合わせてお経を読んでいたら、えって思うでしょ。宗教はひとにもよるけど、ある意味特異なもの。
その一方で苦しんでいるひとに「どうしたんですか?」と宗教者が声をかけることはできて。社会のために宗教者ができることが何かあるんじゃないかっていうテーマを、学生と一緒に考えて、いろいろな方にも出会って刺激をもらえた6年間だった。お坊さんってどうしても「こうじゃないといけない!」って殻にこもってしまうところもあるからね、貴重な期間だった。
― へぇ。安直にもお坊さんって殻にこもるというよりは、社会を達観したような心の持ち主だと思っていました……。
そんなことはないよ、少なくとも私は(笑)うちは在家仏教と言って、教えは地域のひと共に生きていくことなんだよね。そのひとたちと一緒に支えあいながら生きていくっていうところだから、志和で何かやるってなってもお寺が主体なのではなくて、地域みんなで作っていきたいと思うのかもね。
お参りに来たひとを迎えて、お茶をしたりお話をしたりする部屋を庫裏(くり)というそうです。
心に教えを持つということ
― 合宿したときも思ったんですけど、光源寺と地域のひととの関わりって濃いですよね。門徒さんと一緒に旅行されたり、季節の行事で集まったり。
それは一つ、前住職を務めた父の存在が大きいね。本当に偉大だったなと思うよ。住職になる前後では、地域の方々のでの頼られ方とか話の内容が全然違うなぁと感じる。地域でこれがあった、家でこれがあったって言われて、それで話を聞きに行って。そういうところで少しずつお互いの信頼関係を作っていくんだと思う。
志和地域の元気な方々。合宿のときもお世話になりました。
― 地域の窓口みたいな役割なんですね。
昔の寺院はもちろんそうだったし、今では都会こそどんどん分業が進むけれど、田舎ではまだまだ窓口みたいな役割を担っていると感じるよ。地域特有の性質でもあるから逆にその人間付き合いが煩わしいと感じるひともいるんじゃないかな(笑)。
― 私たちだったら心に負担のかからない、波長の合う友達を選んだり、自分に都合のいい情報を選択することが可能になっていて。どちらかというとひとや話を迎え入れる側である堀さんは住職さんといっても私と同じ人間じゃないですか。自分の心が苦しくなったりバランスを取れなくなったりすることはないですか?
あるある(笑)しんどいときもあるよ。もちろん嫌なこともしんどいこともあるけど、あんまり腹を立てることは少ないと思う。究極はみんな同じ人間だって思うんだよね。
― それはやっぱり仏さまに近い場所にいるからですか?
近いっていうより、仏さまの考えだったらどうだろうって心の中で思ってるのかもしれないね。きっと仏さまなら受け入れられるんだろうな、と。
― 人間だったら苦しいことでも、仏さまなら。
そうそう。人間としての意志はきっと底辺にあるんだろうね、嫌いなひとのことは嫌い。だけど、仏さまだったらどうだろうって考えると、許せるわけではないけど心がちょっと和らぐ。それでいいんだと思う。私たちには許されないことはあるし、許せない心も持っているから。
ー そう考えられる心の余裕を私もいつも持っておきたいです。何かに対して許せない自分を発見したとき、少しがっかりしてしまうことがあります。
そりゃ、いつもこのような考え方ができることなんて難しいよ。だって人間だもん。
でもふと冷静になって「仏さまならどうだろう」と考えることができるのは、自分が苦しい時にもいてくださる方がいる、心の中にいつも一緒にいてくださる方がいるという思いからだと思う。
人間の素晴らしいところも醜いところもわかった上で教えというのは説かれていて、そしてそれは決して変わらないものなんだよね。だから、常に変わりゆく社会の中でこそ変わらない教えを心の中に持っているかっていうのは大事だとは思う。苦しみ悩み多い現代社会の中で、それは宗教が担える役割のような気もするね。
あなたはあなたのままでいい
― ひとは昔より自由になって、職業も性別も生き方も選択できるようになってきていると思っていて。自由度が増すと、自分をどうやって大事にしていくか、「あなたらしさ」みたいな形で自分の価値が高まる一方、社会ではそんなに個人は大切にされないような気もしていて。
堀さん自身、高校生の時は「この教えはどうなの?」と仏さまの教えに対してお父さんとよく討論していたそう。
それは難しいかもね。ありのままで生きれないのが私たちの社会とまでも言えるんじゃない。
― ……。
じゃあどうやったら社会の中で幸せになれますかね……?
社会における利益の追求と、仏教でいう真理を悟るということは相反するところがあるからね。それは事実として受け止めていけばいいことだとも思うよ。
自分が中心の生き方が私たちの社会であって、仏教ではそれを「自我」というんだよね。ひとのことよりも自分が自分がっていう考え方。ただ仏教の教えでいう真理は無我だと言われていて。自分がない、「私」が否定されるということ。
― 確かに。お金を稼ぐことももちろんそうだし、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、全てが自分のためにあるかもしれないです。そう考えると、生きていること自体がもう自我そのもののような気もします。無我って本当に存在するんですか?
この無我を体得されたのが、お釈迦さまで、これを仏教の真理として説いてくださったんだよね。日本でもこの真理を体得されようと滝に打たれたり、お堂に籠られたり、自ら厳しい修行されている僧侶の方はたくさんいらっしゃるんだよね。
ただ僕の宗派の教えは、親鸞聖人という方が説いてくださった浄土真宗という教えなんだけど、人間が自己を否定し生きていくことは到底できることではないから、無我の心をお持ちである仏(阿弥陀仏)さまにすべておまかせしたら良いよと言われたんだよね。つまりあなたはあなたのままで、あるがままを受け入れて生きていきなさい、と言われたわけですよ。
悩みを抱え続け、自己を否定することができないことを見抜かれて、どんな状況になろうとも私(阿弥陀仏)がいつもあなたと一緒にいるからあなたはあなたらしくそのまま安心して生きなさいと説いてくださっている。それが浄土真宗の「あなたはあなたのままでいい」という教えなんだよね。
ー 自我と共に生きていきなさい、ということですか?
そうそう。自我を持つ私たちが心豊かに生きるためにはありのままに共に分かち合い、寄り添いあって生きることが大事だと仏さまはおっしゃっていて。だから、地域の人達と一緒にああだこうだ言いながら悩みや苦しみを共有しながら物事をこうやっていく
。っていうのが、この光源寺の在り方だと思う。苦しみって消えるもんじゃないからそんな時は一緒に苦しもうって、少しでも一緒に共有しますよっていう。僕はひととしてもそう在りたいと思っているし、これからのお寺の大切な役割だとも思うんだよね。
ライターだより
「僕だって人間だよ」と堀さんは笑いながらそう言いました。私にとってはまだまだ遠い、人生の大先輩です。
そんな堀さんが人間の本質、仏様の教え以外の「変わらないもの」をもう一つ教えてくださいました。それは生まれてくるものにはいつか死がある、ということでした。みんな明日も、明後日も、来週も、来年もきっとあると思っているけれどそうではない、と。じゃあいつが大事なの?聞かれたとき迷うことなく今日が大事だ、と堀さんは言います。
この記事を読んでくださっている日は、その方にとっての「今日」だと思います。そんな今日が楽しかれ苦しかれ、私にとってもあなたにとっても良い日になりますように。
カメラマンだより
現代社会に生きづらさや孤独を感じる人にとってお寺は救いになるのかもしれないと思った。自我と向き合いながら生きて行きたい。
【かいたひと】あゆ
編集長 / ライター兼広報担当
広島大学総合科学部所属。出身は宮崎県。すきな食べ物は真鯛のおすしです。
【とったひと】かんちゃん
カメラマン兼WEBデザイナー。大阪出身。
写真を撮ること、人と話すことがとにかく好き。
人が気が付かない魅力や楽しさを探すことが得意。
2020年2月10日
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